プーアール茶.com

”こっち”と”あっち”

2020年2月2日の勉強会「ゆるいめの試飲会」のことを記録しておきたい。
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店長が個人的に、手元の茶葉の整理のために、しばらく飲んでいないお茶をメインに、勝手に淹れて飲みます。
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という趣旨であったが、茶葉の整理などは自分ひとりでできることであって、それをわざわざ勉強会と称して人を集めて行うには別の目的がある。検体となる他人が必要な目的。
今回は、”陰”と”陽”がはっきり分かっていないお茶を、はっきりさせたかった。
お茶は体感。それと、心の動き。
お茶の知識や味や香りに囚われず、その奥へまっすぐにすすんで向き合う。
けっこう集中力のいる作業になる。
なので、ほんとうはおしゃべり無用。お茶のことを説明してもいけない聞いてもいけない。ただただお茶を飲んで体感と心の動きに注目する。3杯ほどつづけて飲んでからやっと判定を下す。というのが理想だったが、参加者が少なかったので集中しやすかった。人数が多いとこのへんのルールを設定したほうがよいだろう。
さて、飲んだお茶は以下のとおり。
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+【南糯蜜蘭青餅2013年】(生茶のプーアール茶)
+【刮風古樹青餅2018年・黄印】(生茶のプーアール茶)
+【老象古樹紅餅2019年・秋天 その1.】(オリジナル紅茶)
+【章朗古樹紅餅2016年・青印】(オリジナル紅茶)
+【紫・むらさき秋天紅茶2011年】(オリジナル紅茶)
+【香椿林青餅2016年】(生茶のプーアール茶)
+【昆明老方磚92年 その1.】(藏茶)
+【版納古樹熟餅2010年】(熟茶のプーアール茶)
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けっこうバラバラである。
製法も違う。季節も違う。山(地域)も違う。
でも、これらを”陰”と”陽”のどちらかに分けてみる。
”陰”と”陽”という言葉のもつ印象にひっぱられてはいけない。
なんだったら”白”と”黒”でもいい。
ただこの対局は確かにある。
実感するとわかる。
体感や心の動きはどちらかに傾く。
味の好みのように個人の嗜好が分かれることはない。
開始から2種類のお茶を飲んだところで、参加者のひとりが別の言葉を提案してきた。
「どちらかというと”陰”と”陽”よりも、”こっち”と”あっち”と言うほうがしっくりくるのでは?」
なるほど!たしかにそうなのだ。別の参加者もこれに同感。
お茶を飲んだときに感じる自分の居場所が”こっち”なのか”あっち”なのか。
この感覚に注目すると、3杯飲む前にだいたい分かる。1杯めで分かることもある。
判定は以下のとおり。
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『南糯蜜蘭青餅2013年』  ”こっち”
『刮風古樹青餅2018年・黄印』  ”あっち”
『老象古樹紅餅2019年・秋天』  ”こっち”
『章朗古樹紅餅2016年・青印』  ”こっち”
『紫・むらさき秋天紅茶2011年』  ”あっち”
『香椿林青餅2016年』  ”こっち”
『昆明老方磚92年』  ”こっち”
『版納古樹熟餅2010年』  ”あっち”
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実感を伴わない人がこの文章だけ読むと、なにのことを言っているのかさっぱりわからないだろう。
ま、仕方ないな。バッサリ切り捨てることにする。
どちらかというと”あっち”のお茶は少ない。
”あっち”とは、確かであるはずのことが不確かになる感覚。
”無い味”があるという話を昔にしていたが、それにもちょっと似ている。
味があるはずなのに無いことに脳が混乱して、一瞬の幻を見てしまう。
自分が今いるココはほんとうにココなのか、今という時間はいつの今のことなのか、自分とはどの自分のことなのか・・・みたいなことまでが一瞬だけあやふやになる感じ。
一般的な流通では手に入らない上等なお茶に、”あっち”のやつが多いような気がするが、ほんとうにそうだろうか。まだこの観点を意識して確かめていないので、今後は注意してみることにする。
逆に、「”あっち”じゃなければ上等ではない」とも言えない。例えば、『昆明老方磚92年』はかなり上等に分類できるハイクオリティーな藏茶であるが、このお茶は”こっち”感が強い。”今ここ”。藏茶だから仏教に仕えているせいか、目の覚めた感じなのだ。
まだこの観点を試していないお茶について、”こっち”なのか”あっち”なのかの予測は難しい。なんらかの法則を見つけていない。製法でもない。季節でもない。山(地域)でもない。
なので、つくろうと思ってつくれるものではない。
でも、直感でわかる。
”こっち”と”あっち”にはお茶の本質がある。

追記:
後日、お客様より情報をいただきました。
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大和言葉には、一音毎に意味があるということでした。

あ すべての始まり 天 雨 光 明るい 朝
こ 親愛 優しさ 大切にしたい思い ここ こころ
ち 魂 神々しさ たくさんの 体内をめぐるもの ち みち いのち(息をする魂)

やまとことば50音辞典 高村史司より
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意識と無意識について その2.

川を見ていたのだ。
+【ずっと川を見ているのつづき】
そのとき、なにやら様子がおかしくなっているのに気付いていた。
もちろん正気である。
クスリなんてやっていない。
酒に酔ってもいない。
川の流れのキラキラのほうに手をかざしていると、だんだん手の輪郭がはっきりしなくなる。
メコン川
”千と千尋の神隠し”のシーンで、神の国に紛れ込んだ千尋の手が半透明になってゆく・・・あの感じ。
自分は川だったのだ。
そこには川があるだけで、そもそも自分の存在なんてない。
川の魚も、川を渡る鳥たちも、岸に住む動物たちも、虫たちも、川の流れがぶつかる岩も、底を流れる砂も、そして自分も。みんなひとつの川であって、それ以外のなにものでもない。
人間以外の生命や、生命がない鉱物なども、すべては一人称を持たない。”私”が存在しないのではないかな?
例えば、ライオンはサバンナの大地として野牛を食べて、野牛は食べられてサバンナの大地のままでいる。
”私”がなければ、死なない。
減りもしない増えもしない。
”私”がなければ戦争もない。
所有や支配の概念がないから、だから動物も植物も人間のなすがままをゆるしているのではないかな?
死なないのなら、天国も地獄もない。
川が流れて海に注いで蒸発して雲になって雨になって山に戻って・・・と終わりなくつづくなにかであって、どこからどこまとか、過去とか未来とか、距離や時間の概念さえもあやしくなってくる。
例えば、1万年後に川がなくなったとしても、別のなにかになってつづいている。地球が爆発して星クズになっても、まだつづきはある。
朝日
神様というのは、自分の外側にいると思っていたけれど、”私”がないということは外側も内側もないのだから、居場所がないよな。
それでも無理やり居場所をつくるとしたら、自分と神の境目はない。
やっぱりな。
ときどき自分は神じゃないかと思うことがあったのだ。
お茶づくりという小さな仕事にも、理屈に合わないすごい才能が発揮されることがあった。
でもそれは、”私”のものじゃなかった。
残念ながら”私”の特別な才能や運命ではなくて、宇宙のあらゆるところで起こる自然現象のひとつにすぎなかったわけだ。これまでの人生に起こったすべてのミラクルは、川岸で葦の葉がゆれるのと大差ない。そこらじゅうにある現象だったのだ。
”私”という概念を、昔の誰かがつくって、そこから人間の歴史がはじまっている。
脳にもう一つのバーチャルな世界が構築されている。”私”というのがある世界。
”私”だけでは世界が構築できないから、”私”を元にして他のいろいろな概念を増殖させて、世界がウソっぽく見えないようにしているけれど、不安を感じるのは仕方がない。地盤となる”私”の存在があやしいのだから。
Youtubeを見ていたら、ある医者がこんな話をしていた。
「ガンを治したい医師が、かえってガンをつくってしまう」。
ガンという憎むべきもの、排除したいもの。対局の構造をつくっておいて、クスリや医療技術や保険や、そして経済を発展させる。世界中にガン患者を増やし、ガンの原因を増やし、おおいに戦ってしまう。そもそも自分の中にある細胞の一部で、私もガンも同じなのに。
えらく大きな話になってしまったけれど、今、自分の目前にある小さな課題、「良いお茶とはどういうものか」をつきつめるには、どうしても”私”というのがあるインチキ世界を、自分の脳に構築されているウソを、理解しておかなればならなかったのだ。
自分を意識する脳をスルーして、自分の無い無意識の、リアルな世界に通じる。
カンタンではないだろう。
おそらくこの過程で、言葉のもつ作用。”私”という概念をつくることのできる強力な作用について理解する必要がある。
次はそれについて考えてみる。
つづく。

意識と無意識について その1.

オリジナルのお茶の多くが一天一采(ある一日に摘んだ茶葉でひとつのお茶をつくる)になっていて、これのなにが特徴かというと、写真のような一瞬を切り取って見せているところだろうな。
例えば、春の森のここぞというシーンをパチリと切り取っている感じ。
春というテーマがあったとして、みんなはなにを撮るだろう。
桜を撮るようなベタなのはわかりやすいけれど、ちょっと絵心のある人なら、春をあからさまに象徴しない被写体を選ぶのじゃないかな。
例えば、海の水平線あたりの遠くの波がキラキラ反射しているだけの写真だとする。抽象的だけれど、たしかにその光は夏でも秋でも冬でもない。ちゃんと春を感じることができる。
べつに海じゃなくてもいいのだ。ただ窓から部屋に射し込む光だけでもいい。
なぜ、わざと春を象徴しない被写体にするのかというと、眼球から入った信号が、言葉で理解しようとする脳をとおり越して、もっと深いところに潜入してほしいからだろう。
無意識のところ。意識している自分じゃないところ。
なぜかその脳は知っている。
たとえ海を見たことのない人でもわかる。
もしかしたら春をはじめて経験する赤ちゃんでも、写真に写っている春を認識できかもしれない。
光の信号でなくてもいい。音でもいいし、皮膚感覚でもいいし、香りでもいいし、味でもいい。
経験しなくても知っている。
外とつながっている。
過去とつながっている。
もしかしたら未来ともつながっている。
自分の中に神がいる。
滑竹梁子
滑竹梁子
(写真:滑竹梁子の森の古茶樹)
小さな存在であるけれど、正しくありたいと願っている。
ほんとうはみんな正しくありたいけれど、意識しているところはウソをついたり騙されたりしやすい。意識できるところのほうがカシコくてエライと勘違いしているし、勘違いしているとわかっていても、その呪縛から抜けるのは容易でない。
大人になる過程でそういうふうに教育されている。
弱いのだ。
人間社会が歪んだり、自然環境と調和できなかったり、不健康な状態をいつまでも正せないのは、意識に支配されているからだろ。ひとりひとりの中で、どこかで負けている。
無意識のところと通じる機会を増やして、時間を増やして、チカラの均衡を取り戻さないといけない。
世界中のおびただしい数のアーティストが、無意識のところにみんなを導く努力をしている。自分が何者かわからないまま正しくありたいと願っている。
それでも世界は変わらなくて消耗戦になって勝てる気がしないけれど、闘いを放棄してはいない。
そっち側のひとりのつもりだ。
最近たびたび「自分のお茶づくりは最強でっせ!」と自画自賛しているのには、こういう根拠がある。
勝てないかもしれないけれど負ける気もしないのだよな。自分の中のことだし。
さて、
なぜこんな話をはじめたかというと、ある問題への気付きがあったから。
良いお茶とはどんなお茶か?
仕事上、ふだんたくさんのお茶を飲んで、比べて、瞬時に判別している。
これは良い。これはダメ。
でも、なぜ良いのかダメなのか?
説明しようとしたとたんにウソが発生してしまう。話をつくってしまう。ホントウのことを言おうとしているのにウソになるジレンマ。
自分で自分がイヤになりかけていたわけだ。
なぜこんなことになるのか?
ある日ストンと理解できたのだけれど、そのきっかけとなったエピソードはつづきの記事”その2”で話すことにする。

つづく。

農薬について考える その6.

肌がベタつく蒸し暑い日は冷たいものを飲みたくなる。
冷やした水やお茶をゴクゴク飲んでみる。ところが、思ったようにダルさは消えない。夜はなかなか眠れない。
こんなときは意外と身体の芯が冷えていることがある。
水分補給は冷たいものよりも温かいもの。お茶は身体を冷やす生茶よりも温める熟茶がよい。
たぶんこういうことだと思う。肌がベタつく蒸し暑い日は空気中の水分が多く、皮膚から汗が蒸発しにくい。汗の排毒機能が落ちるせいか内臓が疲れてくる。エアコンで冷やして汗を抑えるよりも、いったん汗を流してシャワーを浴びたほうがよい。発汗を促す温の性質で、内蔵にもやさしい微生物発酵の熟茶が良い。
そこまで頭で考えなくても身体はわかっている。
どんなに暑い日でも身体が冷えているときは熟茶の甘味・旨味が心地よくスッと喉を通る。腹の底が温まってホッコリする。
逆に、暑い日は身体を冷やす生茶という決まった知識を押し付けても、いつもは甘いお茶を苦く感じたり、腹の収まりが悪かったりする。
熟茶
半分は外側。半分は自分の内側。
外側と内側の関係に注意することが、お茶を理解するということ。
医薬と農業を司る神の「神農」は、あらゆる植物を試して食中毒になりながらひとつひとつを理解したということだけれど、この話は、みんなが同じアプローチで勉強することを奨励しているのではないかと思う。
毎日食べるものや飲むものが自分にどう作用しているのか、ひとりひとりが一生かかって学んでゆく。
外側と内側は相対的なものだから、どちらかの関心が薄れると両方とも小さくなってゆく。どちらかの関心が高まると両方とも充実してゆく。
農薬について考える。
農薬について考えたくない人のほうが多いと思うが、それは自分の内側に関心を持てない人が多いということ。
農薬について考えなくてもよいから、まずは自分の内側に関心を持ってほしい。
自分の内側に関心を持つ人が増えると、産地では自然環境の健康回復に関心を持つ人が増える。
お茶だけの話ではない。すべての食べもの飲みものについて。

農薬について考える その5.

西双版納のある茶山の畝作りの茶畑では殺虫剤が使われている。
そこでは10年ほど前から使用しているらしいが、10年前から茶葉の虫食いが増えたためにそうしているらしい。
10年ほど前といえば2007年のちょうど大陸のプーアール茶ブームで需要が拡大した頃、新しい茶園が増えた時期と重なっている。さらに、この10年間は自動車のタイヤの需要による天然ゴムのプランテーションの開拓がすすみ、茶山周辺の森林を大規模に失ってきた。
茶葉につく虫を食べる小鳥たちが住むところを失う。地域全体が乾燥して気候が変わる。他の変化には気付きにくいが、いろんな生物や植物が住むところを失って生態系のバランスが崩れてきている。
化学薬品が使われる茶畑
生態系のバランスが崩れると殺虫剤の出番が増える。
農家の経済の変化も関係する。
四季折々いろんな作物をつくって半自給自足の生活をしていたスタイルが、収益の高いひとつの作物に集中して、その稼ぎで生活費を賄うスタイルへと変化してきた。マイカーを買う。家を新築する。子供を大学にやる。収入を増やさないとやってゆけない。
中国は農家一軒ごとに土地が割り当てられた小規模農業が中心なので、限られた土地で生産性を上げなければならない。高く売れる作物に労働力を集中させたほうが効率よい。村の誰かが有効な手段を見つけたら村のみんなに普及する。殺虫剤が有効となれば村じゅうに普及する。
殺虫剤をいちど使用した茶畑は、来年も再来年も続けないと食害が止まらなくなる。
生態系のバランスが崩れて虫の天敵が減ったことに加えて、茶樹そのものの体質が虫に弱くなってゆくことも考えられる。虫のアタックを防ぐために自ら免疫力をつくりだして虫の嫌う体質になろうとするのを殺虫剤が阻んでしまうのだ。人間の子供と同じで、過保護は病気への抵抗力を養う機会を奪うことがある。
部外者の我々は安易に考える。
例えば、自然栽培をアピールしたら消費者にその価値が理解されるのではないかとか。国が保護したり規制したりするのが有効ではないかとか。
生態系のバランスが崩れたまま無農薬を維持するなど実際には不可能なのに、矛盾をかかえたまま農家は板挟みになる。
西双版納は交通の便が良くなって観光者は年々増えている。有名茶山を参観するお茶ファンも増えている。農家は彼らにウケがよいように自然栽培を演出する。お茶ファンに見せる農地だけに自然栽培を保って、ちょっと奥へ入った農地では化学薬品をつかう。そうなると余計に難しい。カムフラージュされると外から問題を見つけにくくなる。国や自治体が管理するのもうまくゆかない。巧妙な隠蔽工作を増やしたり、内部から腐敗することもある。
相反する(ように見える)2つの問題が絡んでいる。
生態系のバランスを健康に保つこと。農家が経済成長できること。
ここに勘違いがある。
作物をひとつに集中させたほうが生産効率が良いという勘違い。
例えば、茶畑には茶樹しか存在しない状態のほうが、茶葉の生産効率は良いと考えられている。栄養を茶樹に集中させたいので、他の生物や植物はなるべく排除したい。
短期的に見るとたしかにそうした農家ほど生産性を上げて稼いでいるが、長期的に見るとそうでもない。量産しやすい農産物ほど市場での需要が飽和するのにそう時間を要しないから。
巴達山の生態茶園で試みられた、茶樹に寄生する薬草の栽培に面白い結果が出ている。
巴達山の茶園
茶樹の寄生植物
茶樹の寄生植物
茶樹の寄生植物
寄生植物に栄養が奪われて茶樹が弱るのではないか?
茶葉の生産量が少なくなるのではないか?
当初はそういう心配があったが、3年目の現在はぜんぜんそんなことはない。茶樹はむしろ元気で生産量は変わらない。気のせいかもしれないが他の茶園よりもお茶は薫り高い。
薬草のためにも除草剤も殺虫剤も使えないので、労働力を要して生産コストは上がっているが、その分は薬草の収入で賄える。茶葉だけ生産する無農薬栽培よりも薬草分の収入が多いことになる。
他の生物や植物と共生することで、なにかを失うがなにかを得ている。
ひとつの作物の生産性を見るよりも生態系のすべての生産性を見たほうが、生態系にある資産が活用できるということ。まだ知らないだけで莫大な資産が眠っている可能性がある。
農家がこの分野にもっと賢くなれば、化学薬品の使用は経済的にも不合理となる。

農薬について考える その4.

他人の食うもののことなど知ったことか!
というような他人への無関心、思いやりのない心が食品の安全や健康を損なってきた原因と思う。
自分の子供には食べさせたくないものを他人に平気で売ることができる。身内と他人を分けて考えられる。これは今も昔も世界中のどの国の人もそうで、人の本性だからひっくり返すのは難しいだろう。
企業のような組織はむしろそんな人の性質をうまく利用して自己の利益を追求する。
例えば、除草剤メーカーは農家さんのためになっても、農家さんのつくるものを食べる人や、山の生態系のあらゆる産物から糧を得て生活する人のためになるところまでは考えないし、まして野生動物や虫のことなど屁とも思っていない。除草剤メーカーからしたら農家さんは身内で、地域の人や食べものの消費者は他人ということだろうか。
例えば、食品の大手貿易商社は原産国の自然環境が破壊されてダメになってもまた別の国から輸入すればよいし、産地でどんなにひどいことがあっても消費地に知られなければ大丈夫と考えて大量生産されたものを安く売る商売ができる。消費者の健康については関心がない。身内となるのは稼ぎを分けている社内の人や取引先や投資家のみで、あとはみんな他人なのだ。
身内と他人。「内」と「外」をつくることによって自己のモラルの有効範囲を決められる。有効範囲内で”いい人”であればそれでよいとする。
もしも世界が身内ばかりで他人がひとりもいないなら戦争は起こらない。人類皆兄弟なら兄弟喧嘩はしても戦争にはならない。逆に言えば、戦争するために国がある。内と外を国境線で分けて揉め事をつくりたいのかもしれない。
もしかしたら宇宙人も兄弟かもしれない。彼らは兄弟を訪ねて旅行に来ることはあっても侵略という発想ははじめからない。そうするとハリウッド映画は成立しない。世界中の人の心のどこかに外の敵をつくりたい意識が潜むからこそ映画は大ヒットする。
外に敵をつくることで内への愛情を育む。アメリカのマッチョなおっさんヒーローみたいな感じ。この構造でつくられた愛情はどこか安モノっぽい。安モノを見抜く眼を養うために、もっと心理学や社会学が普及してほしい。
ま、宇宙人は冗談として、地球上のあらゆる生きものが身内だと考えることができたら、いろんな問題の解決は早いだろう。たぶん、大昔に仏教はそれを目指した。
ビワ
(無農薬のビワ。親戚から送ってきたもの。)
お茶づくりをとおして生態系のつながりを勉強するにつれ、山の自然と自分のお腹の中の健康はいっしょになってくる。山の自然の調子が悪くなってきたら、そこでつくられるあらゆる食べものの栄養が偏ってきて、それを食べる人のお腹の中も調子を崩して、やがて健康を損なう。
みんなも自分の食べものがつくられている土地の自然を観察してみたらよいのだ。自分のお腹の中が見えてくるから。自分のお腹の中に除草剤や殺虫剤を撒きたい人はいないはずだ。肥料たっぷりでメタボになりたい人もいないはずだ。
意識しなくても人の身体は健康を回復しようと頑張っている。それと同じように、自然も健康を回復しようと頑張っている。邪魔しなければよいだけ。カンタンなこと。
たまたま見たTEDトークにこんなのがあった。
+【ダン・バーバー: 魚と恋に落ちた僕】 
タイトルと内容は一致していない。
スペインの魚の養殖に自然栽培的な手法(餌をやらない。外敵から守らない。自然のままの環境を再現した養殖池。)の成功例を紹介して、現代農業は生態系の資本を有効利用していないのではないかと異議を唱えている。
自分にはこの例のような広大な土地を所有するチカラはない。けれど、仕事を休んで山の健康が回復するのを待つことはできる。農家と相談して小さな森林を守ってゆくことはできる。森林があれば、虫やカビにやられた茶樹は何年か放置していたら免疫力を高めて回復する。その免疫力こそがお茶の薬効や香りにつながることを証明することはできる。
気の長い話だ。けれどこの問題からは逃げられない。お茶がダメなら米もいいしワインもいいなと思っていたけれど、結局同じ問題が待っている。IT業界に転職しようが、ハワイに移住しようが、朝・昼・晩と食べるものの育った自然環境のことを心配しなければならない。自分の身体を心配するのと同じように。
どうあがいても他人ごとにはできない。

農薬について考える その3.

聞くところによると、台湾では”農地の茶樹を3年間放置した後の春の初摘み”というのが高く評価されているらしい。
3年も茶摘みをしないで周囲の草刈りもしないで放っておくと、茶樹は休憩モードに入って春に出す新芽の数が少なくなる。産量は少ないので高価になる。年に一度の春しか摘まない茶葉のさらに5倍の価格なら妥当だろうか。それでも欲しい人がいるので農家は仕事になる。台湾のお茶ファンの層は厚い。
その一方で、観光客向けの安いお茶を大量に栽培する農地は面積を増やす一方である。市場シェアのほとんどを占める。
台湾はお茶どころとして成熟している。過去に自然環境の荒廃を何度も経験してきて、二極化が鮮明になったのだろう。
雲南も同じようになってゆくにちがいない。
西双版納の産地でもそうした動きがある。
茶商やメーカーが農家から土地を借りて自分の思うように茶樹を栽培するのが流行りつつある。内容はピンからキリまであるだろうが、いずれにしても根本が大きく違ってくる。
西双版納の山
自然のままの自然ではなく、人間の管理した言わば”自然栽培の盆栽”みたいなものになってゆく。
植木鉢の中だけを管理する盆栽のように茶園に区切ったところだけを管理する。隣の茶園のことは知らないことにする。茶園であろうが茶山であろうが規模は違えど範囲を区切れば管理できる。地域の広範囲な環境破壊から茶樹を守るのはその手しかないだろう。
でも本当は、山の生き物や植物はすべてが繋がっている。隣の茶園も隣の山も谷も平地も・・・境界線とか土地の区分とかは人間の都合でつくった概念でしかない。自分の茶園だけいい顔をしても健康な自然は戻ってこない。そうと知っていてもそうするしかない。それしかできない。地域全体の環境や人々の生活が大きく変わってゆく流れは誰にも止められない。
結局、農薬の問題も他人の問題というふうに線を引いてしまうのだな。

農薬について考える その2.

見たいものだけを見たい。嫌なものは見たくない。
毎日を気分良くすごしたい。
みんなそうだろ。
みんなそうだとみんなが知っているから、環境破壊や農薬の問題は軽視されやすい。
見ざる聞かざる言わざる
逆に、自分にとってちょっとでも都合の良いことは過大評価されやすい。自然栽培や有機栽培を謳うお茶はそんな消費者の心理を追い風にする。自然栽培や有機栽培といってもピンからキリまでものすごく大きな差があるが、その差を正確に把握しようとすると不都合な真実を知ることになって他人から嫌われる。嫌なことはしたくない。知らないふりをして見過ごしたい。
結局この問題は消費者が悪い!と、自分の立場からは言いたいところだが、そうじゃない。農家が悪い、メーカーが悪い、茶商が悪い、小売店が悪い、消費者が悪い、農薬メーカーが悪い、国が悪い。他人が悪いとして外側の問題にしてしまいたいが本当はそうじゃない。
人間が悪い。みんなひとりひとりの内側に潜む悪。
自分の悪と対峙するのを避けて楽しく生きようとする陽気な性格。だからこそ人間は繁栄できたのかもしれない。国は未来の子どもたちから借金しまくって経済のお祭りを続けたり、毎日の食品の原料となる農作物にヘンな化学薬品がいっぱい使われたり、賢い人はこれを利用してもっと幸せになることだけを考えたりするのかもしれない。
環境破壊や農薬の問題はいつか暇な時に考えることにして、今日を楽しく生きよう。

農薬について考える その1.

2017年の春茶はつくらないことにした。
3月中旬の、これから旬を迎えるというときに決めたけれど、決めてから間もなく2週間も雨が続いた。清明節の4月5日に青空が戻ったが、撥水節の4月12日からまた雨が6日間続いた。水気が多いと早春の香気・茶気が逃げる。当店の製茶は晒干(天日干し)に頼るので、空に雲が多いだけでもスッキリ仕上がらない。
2011年の春もたしかこんな天候のめぐりだった。雨の西双版納
雨の西双版納
だが、春茶をつくらないのは天候のせいではない。健康な茶葉の入手が難しいせいだ。ずっと心の中にこの問題がモヤモヤしていて、手を止める理由ができたらホッとした。
自分は心身ともに健康のつもり。いつでも森に入れるようトレーニングを続けているし、食べものにも気をつけているし、しっかり寝ているし、むしろ健康だから休むことができると思う。
農薬と土壌汚染の心配を無視できないところにきている。
これまでにも心配はあったが、隠していたわけではなくて、知れば知るほど根の深さを知って問題が難しく見えてきた。
慎重になって、しばらくブログの更新もできなかった。
なぜなら、この問題に触れるとみんなに嫌われるから。
ちょっと考えれば分かることだけれど、お茶だけの問題ではない。みんなが毎日食べてるものや飲んでいるものすべてに疑いがあり、みんなを気持ち悪るがらせることになる。
原子力発電所の放射能の問題と同じで、これに反対すると経済的に苦労しめられそうな不安もある。
除草剤の撒かれた地面
(草甘燐で焦げた黒い草)
今のところもっとも怖いのは中国名:草甘燐。アメリカのモンサント社の発明した除草剤グリホサート(日本名:ラウンドアップ)で、西双版納ではここ3年くらいで使用する農家は少なくなったが、それは表向きのことで、隠れたところでは今でも使っているし、これからはもっと需要が増すだろうと推測している。組織ぐるみの隠蔽もある。モンサント社の権利が2000年に終了しているので、現在は中国のメーカーのつくるコピー品が流通している。
雲南のお茶の産地にこれが普及したのは比較的最近のことで、2007年のプーアール茶バブルと呼ばれた年の前後と、2010年から価格が上昇した古茶樹ブームの前後である。茶葉の需要が急拡大して農地を新しく開拓するときに活躍するからだ。しかし、その後も年々上昇する人件費が草甘燐の使用を後押している。例えば、草刈りや土を起こす鍬入れはアルバイトを10人雇って1日2,000元かかる労働だが、除草剤なら100元。年に2回で4,000元のところ200元で済む。
お茶以外の農産物、果物や天然ゴムやサトウキビのプランテーションではもっとたくさん使用される。茶山の周囲にはこうした農地が急拡大しているので、完全に避けるのがますます難しい。
2014年から原生林の森のお茶に注力してきたのは、この問題を避ける手として有効だったが、森はどんどん小さくなっている。また、森のお茶ブームによってより多くの森のお茶を採るための山道や新しい農地開拓に草甘燐が使われるケースもある。森の中も聖地ではなくなりつつある。
草甘燐は数年間土に残る。
古茶樹の周りにも除草剤
古茶樹の周りにも除草剤
(古茶樹の周りにも除草剤)
茶友の中には敏感な人がいて、7年前に1度だけ使用された農地のお茶にも舌に痺れを感じて皮膚が痒くなる。自分はそこまで敏感ではないが、3年や4年くらい前までの草甘燐ならお茶の味に見つけることがある。
大げさに言っているのではない。例えば、化学調味料を避けた食事を毎日続けたら、スーパーやコンビニの加工食品やファーストフードが耐え難くなるだけでなく、大手メーカーの醤油や味噌にまで化学調味料の味を見つけられる。のどが渇いたり、眠れなくなったり、皮膚が痒くなったり、全身がだるくなったりする。心理的な問題ではなくて習慣の問題。健康な食生活をすると身体が敏感になるので、それに気付きやすくなる。ついでに言うと、自分は日本の市販の白米は体感が重たすぎる。
中国茶の高級には体感の良さが求められる。お茶は漢方の国に生まれた嗜好品である。
草甘燐の散布された地面は弾力を失って土が砂のようにサクサクになる。もうそれを見ただけで十分に気持ち悪い。
基準値がどうとか数年で土に分解されるとか、どんな数値を出したところでこの気持ち悪さを覆すことはできない。自分はあくまで感覚で判断するので、誰かに理解してもらう必要はない。
人間の身体が科学的に解明できている部分は8%だったかな?(どこかのお医者さんが言っていた)ということは92%がわかっていないというのに、どうやって草甘燐が人の身体に良いとか悪いとか科学的に判断することができる?
例えば、茶葉の成分を分析検査しても問題が見つからないケースもあるだろう。もしかしたら草甘燐がなくても森の健康は損なわれ、お茶に嫌な味や体感が宿るかもしれない。草甘燐は汚れた海に発生する赤潮のようなもので、不健康なシグナルのひとつにしか過ぎなくて、原因のすべてではないだろう。
土の生態系が不健康になって、茶樹がなんらかの反応をして、お茶の味や体感が悪くなる。この因果関係が自分の感覚で認められただけで十分である。
森を失った山
森を失った山
(森林を失った山)
自然環境と人の身体や心は同期している。茶山の健康と自分のお腹の中はつながっている。地球上の大規模な原生林の消滅と人間の健康はリンクしている。
こういう情報がある程度普及すると、これを利用して商売する業者もいる。
自分だけは自然栽培の健康なお茶を手がけているとアピールして、少しでも商売上の優位な立場に立ちたいわけだ。しかしここは中国。同じことをアピールする業者はすでに何百・何千といて、ホンモノを見つけるのに苦労する。市場では雲南のお茶というだけで有機栽培的なイメージが定着している。
周囲に人家や農地がなくて数時間も歩いて入る森の中であるとか、さらに山を超えて国境を超えた未開発のラオスやミャンマーの山であるとか、実際にまだあるにはあるのだが、いずれも中国の老板によってお金をかけて開拓されている。同じ資本によるおなじ市場に向けた商売なのだ。歩いて国境越えのできる地元の人たちから収集した話しでは、ラオスもミャンマーもすでに中国側の有名茶山と同じことになっている。隠れたところだからもっと大規模に森林が伐採されて農地開拓されて、人工的な栽培のお茶が増えている。
どういうわけか今年はホンモノの森のお茶にもホンモノの越境のお茶にも、すでに嫌な味や体感が現れてきている。草甘燐の無いはずの土地にもだ。
自分が間違っていたなら、それは良いことだから無視してくれたらよい。ひとりで悶々としているだけだから。
2009年に西双版納のお茶づくりをはじめたときには、こんなことになるとは予想もできなかった。
でも、こんなことになったからこそ自然環境とお茶の味の関係や人の生活の変化や、いろんな因果関係に気付くことができた。農家や茶商がどのようにして自分を騙して他人を騙すのか、自分の中にも潜んでいるワナについてもちょっと分かるようになった。
これからどうしたらよいのかわからないけれど、このまま観察を続けるつもりだ。
今は見るだけ。それしかできない。

追記:
当店のお客様で、すでに購入したお茶が大丈夫なの?という心配があれば遠慮なくメールをください。わかる限りのことををお伝えいたします。

勉強会を考える

プラハの教会
プラハの教会
プラハの屋根
チェコのプラハで4回もプーアール茶の勉強会をした。
マルちゃんの友達のTEA SHOPやTEA ROOMが会場となった。
参加者はお茶ファンだけでなく、業者の人も多数いた。
プーアール茶は業者にとってもミステリアス。少なならず痛い目に会っている業者の顔は怖いので、すぐにわかる。
勉強会最後の2回は、朝の9時半にはじまって終わりは夜の8時頃。お昼休憩の2時間を差し引いても8時間半。2日続けた合計は18時間になる。
1日目は、プーアール茶の歴史をテーマにした。
西双版納にはなぜ大きな古茶樹が群生しているのか。なぜ陸羽の茶経に紹介されないのか。少数民族と茶樹の出会い。医食同源のお茶。生活のお茶と文化のお茶の2つの歴史。皇帝とお茶と税金。西洋と東洋の交易。産業になったお茶。雲南のお茶に関わった人々の物語。
手元には、いろんな時代のいろんなタイプの、飲めるサンプルがある。当店は老茶専門店としてはじまったから。
2日目は、茶葉のクオリティーをテーマにした。
西双版納の地理的特性。茶樹の育つ山。周囲の森。品種。采茶のコンディション。季節や天気。星のめぐり。製茶と人の手と。熟成のこと。
茶摘みから保存熟成まで、すべての工程に付き合った茶葉が手元にある。2009年秋から2016年秋まで、季節ごとに実験的なことをしてはサンプルを貯めてきたので、1日では飲みきれない。
今振り返ってみても豪華な内容だった。
準備のために6日間ほど、チェコに滞在しながら部屋にこもって時間を費やした。
でも、一度はやりたかった長時間の勉強会。
経験してわかったのだけれど、もっと充実させたら10日間の合宿ができるだろう。
それで、さらにわかったのだけれど、これは自分の仕事じゃない。
もしも勉強会を頻繁にするようになったら、当店のオリジナルのお茶の質は下がる。勉強して賢くなったら良いお茶が逃げる。良いお茶をつくっても売れないから勉強会で稼ぐ・・・みたいな、負の方向へ向かって専門性を失う。
プラハの町
プラハの茶室
チェコのプラハの茶店
チェコで勉強会
ブログは、自分の考えをまとめたり、記録を振り返って新しい発見をしたり、モヤモヤを発散したり、だから続けられる。しかし、勉強会は短絡的で長期的な利益が見込めない。
カンタンに勉強をすると、結局は価値を失うのだよな。自分もお客様も。
知識は、無いほうがかえってお茶を楽しめることもある。知らないほうがもっと深く入ることもある。
知識を得ると、つい嬉しくなって誰かに伝えてしまう。モノ知りの優越感を伴うこともある。自分の知らないうちに媒体になっている。空気みたいにタダでそこらじゅうに漂う知識。「最近のテレビは面白くないなー」と言う、そんなあなたも媒体としては差不多かもしれない。
静かな味と体感だけがお茶の表現。
意味のある言葉を発しない。映像や音楽みたいに強く心を揺さぶらない。
この表現はぼんやりしているようで正直。
自分がお茶づくりの現場で身体が動かなくなったら、心が嘘をついたら、必ずお茶の味になって現れる。
茶樹の住む生態環境が破壊されたり、農家が産量を求めて乱獲したら、必ずお茶の体感になって現れる。
茶葉にはいろんなメッセージが物理的に記録されている。命にかかわるメッセージだった時代に解読を試みた人は、それ相当に価値のあるなにかを見つけていた。
茶葉をお客様に届けるまでが自分の仕事。メッセージの解読や解釈は、勉強したい人がお金をかけて、手間をかけて、時間をかけて行えばよいのだ。質問があれば茶葉にする。自分の身体に聞いてみる。延々とその繰り返し。
本当の勉強はこういう感じに、実践の試行錯誤あるのみ。
勉強したような気持ちになることが大事で、孤独と退屈しのぎに頭を興奮させたいときに、勉強会に参加したらよいと思う。
自分はそういうこともあんがい楽しめるから、講師が務まる。
シアター
シアター
プラハの夜


茶想

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