製造 : 1950年代末期
茶葉 : 雲南省西双版納州孟臘県易武山麻黒村古茶樹
茶廠 : 孟海茶廠(国営時代)
工程 : 生茶のプーアル茶
形状 : 散茶
保存 : 香港ー台湾ー上海 茶缶密封
茶水 : 日本京都御所周辺の地下水
小さめの蓋碗できっちり。
お茶の感想。
天候のせいか体調のせいか、今日は気持ちが沈んで静かな脳で、繊細なお茶を味わうのに向いていた。前回うまくゆかなかったこのお茶を「小さめの蓋碗」+「熱い湯」で淹れる。
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【早期紅印春尖散茶プーアル茶】
熱い湯にしたのは、約60年の熟成で変質した茶葉のため。ゆるめの湯では開かない。
茶葉を皿に開けてみると粉が多い。売り切れて少し残った底のほうのを手元に残したからだろう。茶壺でうまく淹れられるわけがなかった。
もったいないから洗茶は無し。
1煎めから3煎めまでは、湯を注いですぐに茶海に移す。
昇る蒸気に強い樟香が混じる。
骨格・輪郭がシャキッとした味には活き活きとした色彩が見え隠れする。
4煎めから少しずつ時間をとる。このあたりからまろやかで厚みのある熟茶のようなコクと、糯米香や棗香が前に出てきて、慣れない人にとっては、これをホコリっぽく感じたり、泥臭さく感じるかもしれない。その中にキラッと輝くものがあるかないかが年代モノの生茶と熟茶の違い。
その後の煎はブレることなくひたすら続く。2gほどの茶葉だったが、16煎めになってもまだ色が出た。とろんとした透明な甘い汁にはなにか輝くものがあって、煎をどこで終えてよいのかわからない。
蓋碗に残った葉底は、真っ黒に焦げて、捻じれたまま開かない若葉やクズ茶葉が弾力なくボロボロとして、ここからどうやってあの澄んだ橙色が抽出されたのだろう?と不思議に思える。
もはや茶葉とは違うなにか。
そう。違うものなのだ。四大元素のひとつである「土」に近い。土をお茶にして飲んでいると心得るべし。
ひとりごと:
お茶は道楽。
社会の役に立つなんてこれぽっちも考えない。
というつもりでいるのに、
過去のブログの記事の、社会的なことに触れた内容に「いいね!」(ソーシャルボタンと呼ぶらしい)がたくさんついて違和感を感じた。なので
消した。
中国からアクセスできない「ツイッター」や「フェイスブック」には参加しないから、詳細はわからない。好意でいただく一票なのかもしれないが、当店は美味しいお茶を売る店。正義の一票を乞う立場ではない。
お茶づくりをしている現場で、社会的な問題の解決を手伝うことはある。しかし、それはあくまでも仕事につながるとか、半径500メートルの生活圏のために考えることであって、地域社会にとってどうか?民族にとってどうか?まして国にとってどうか?なんて考えない。当店の紅茶が売れた分は、アフリカの農園の貧しい労働者が喰いっぱぐれるなんて考えない。
例えば、民族間で弱い者いじめに見える状況があったとしても、現場でじっくり観察するとそうでもなくて、時代の急速な変化で、生き方の違いが歪となって現れて、現場の人々が真剣に取り組んでいても解決の難しくなることが出てくる。
「いいね!」にしても「購入!」にしても、正義の一票のちょっとした権力行使の欲が、「正しきもの」を探して、物事を見たいように見ようとしてはいないだろうか。
業者はその心理を見抜いて、ストーリをつくって正義の一票を集める商売をしてはいないだろうか。
もしもそうなら、消費者も業者もどっちもどっちだ。
解決の難しい問題について、歴史を学んだり、現場で一緒になって試行錯誤するつもりなんて、はじめから無いのだから。
お茶は、お茶を通して道理を見極める審美眼を養うために存在価値がある。
どこか遠くの「正しさ」を問ううさんくさい話ではなくて、今、この一杯と自分とにあるリアルな課題。
まっすぐ学べるのなら道楽で上等。