丁家老寨青磚2005年 その1.
製造 : 2005年4月・5月
茶葉 : 雲南省西双版納州孟臘県漫撒山(旧易武山)丁家老寨古茶樹
茶廠 : 農家+景洪の茶商
工程 : 生茶のプーアル茶
形状 : 磚茶
保存 : 西双版納 紙包み 竹皮包み
茶水 : 西双版納のミネラルウォーター
茶器 : 宜興紅泥壺・鉄瓶・炭
お茶の感想:
2018年の春は丁家老寨に行くことにした。
天気予報を見て山に入るタイミングを図っているところ。
他の有名茶山と同じく丁家老寨の古茶樹も乱獲がたたって、ここ3年くらいのお茶の味はパッとしない。
しかし今自分の勉強したいところは慣れた茶山にある。
スレていない茶地を求めてあちこち車を走らせている現地の茶商たちが見つけてくる茶葉には魅力があるけれど、これを一から理解するのには年数がかかる。
各山の晒青毛茶のサンプルを集めて、定期的に試飲して観察してきた。
はたして生茶のプーアール茶として適切な品種なのか?
製茶の技術はどうか?
熟成変化に魅力はあるのか?
これらの観察には手間と時間がかかっているので、これ以上いろんな山のお茶に手を広げると仕事の質を落としそう。
2012年のこのお茶でさえ、6年経った現在でもまだ謎が多い。
+【丁家老寨青餅2012年 】
熟成変化はおおむね良好。
西双版納に在庫しているのは、はじめの1年間の保存でちょっと湿気ているが、質が落ちたと言えるほど明確に悪いこともない。湿気ると、香りの立ち方が鈍くなったり、味に酸味が加わったりするが、一年中気温の高い地域なので、もしかしたら乾燥に気を付けていてもこのくらいの変化はあったかもしれない。
漫撒山(旧易武山)の古い品種の茶葉は昔から(1950年代以前)長期熟成の実績がある。
この点でカタイというか安心感がある。
過去のサンプルと比べることができる。
漫撒山一帯のお茶を専門にしている茶商なら、過去に一度は丁家老寨のお茶を入手している。
知り合いの茶商が持ってきたお茶と比べてみる。
『丁家老寨青磚2005年』(仮名)とする。
2005年のはちょっと珍しい。
2006年・2007年にプーアール茶バブルと呼ばれる相場の高騰があったが、価格の高騰は乱獲につながる。
一般的な農作物は豊作貧乏で、沢山収穫されすぎると価格を下げるのが普通だが、茶葉は長期保存ができるせいかそうならない。
2005年はまだプーアール茶ブームが中国大陸全土に広がっていなくて、昔から飲んでいた南方の人たちが主に消費していたので、生産量は今ほど多くなく、新しく森を切り開いて茶地をつくったり、年に3度も4度も茶摘みをするような乱獲は必要なかった。易武山の有名茶地は「麻黒」や「落水洞」くらいで、「丁家老寨」を知るのはマニアくらい。この頃は農家は茶商のオーダーがなければ茶摘みをしないこともあったくらいだから、茶樹は健康だったはず。
剪定や台刈りによって枝や幹が詰められると枝の分岐が増えて一本の樹から採取できる茶葉の量は増える。しかし古茶樹特有の滋味深さは失われる。
2005年のこれはまさに滋味深い。茶湯が口に溶けるようになじんで、すっと喉を滑り落ちて、お腹の底を温める。舌に残る苦味・渋味の消えの速さがよくて清潔感がある。心配していたほどに湿気た影響が悪く現れていない。
だが、お茶のお茶たる風味が弱い。なんだか眠い。
この眠さは丁家老寨のお茶の特徴かもしれない。
この2005年のはあきらかに茶摘みのタイミングが悪い。「春のお茶だ」と茶商は言うが、おそらく夏の雨季に入った5月の2番摘みだろう。
香りが無いし、茶気も充実していない。
ただ、それが眠さの原因じゃない。
2012年の早春に采茶した『丁家老寨青餅2012年』にもこの眠さがあるから。
左:丁家老寨青餅2012年
右:丁家老寨青磚2005年
比べてみると香りも茶気も2012年のが圧倒的に強い。でもやはりなんとなく眠い。
こういう品種特性かと思う。これでよいのかもしれない。
茶葉にしっかり熱が入る3煎めくらいになると香りがキリッとしてくる。外から薫るのではなくて吐く息に薫る香り。この香りが出てくると嬉しい。はじめの1杯めからフルパワーで薫る小葉種の、例えば”倚邦山”のお茶よりも香りにおくゆかさがある。
ささやくような香りは聞くほうの意識を集中させる。
お茶の味の審美眼が、昔の人と今の人とでかなり異なるのではないかと思う。
昔の人のほうが詩人だったので、お茶の味わいに揺れる心を鑑賞できたにちがいない。
どのお茶の香りが強いとか、渋いとか苦いとか、煎が続くとか、なにかに似ているとか、そうではなくて、茶酔いの美しさ。
美の鑑賞は感じる側の人の有り方が問われる。
千利休の時代の黄金の茶室に秀吉の貧しさを感じてしまうように、例えば曼松のお茶の派手な風味にはそれを好む人の未熟さを感じてしまう。(曼松は西双版納旧六大茶山のひとつで、清朝の時代に皇帝ブランドの冠が付けられて国内外の都市に売られていた。現在また人気が上がっている。わかりやすい強い香りが特徴。価格は高騰して毎年話題になる。ニセモノもあふれている。)
美にはこういう面もある。
人の心の卑しさみたいなところを美の学びから指摘できるのは、成熟した教育があるからこそ。
つくる側の問題ではなく、流通の人も、消費する人も。みんなの教育が必要。
左:丁家老寨青餅2012年
右:丁家老寨青磚2005年
コーヒーやワインは科学や経済が偉いが、お茶は芸術や思想が偉い。
茶葉 : 雲南省西双版納州孟臘県漫撒山(旧易武山)丁家老寨古茶樹
茶廠 : 農家+景洪の茶商
工程 : 生茶のプーアル茶
形状 : 磚茶
保存 : 西双版納 紙包み 竹皮包み
茶水 : 西双版納のミネラルウォーター
茶器 : 宜興紅泥壺・鉄瓶・炭
お茶の感想:
2018年の春は丁家老寨に行くことにした。
天気予報を見て山に入るタイミングを図っているところ。
他の有名茶山と同じく丁家老寨の古茶樹も乱獲がたたって、ここ3年くらいのお茶の味はパッとしない。
しかし今自分の勉強したいところは慣れた茶山にある。
スレていない茶地を求めてあちこち車を走らせている現地の茶商たちが見つけてくる茶葉には魅力があるけれど、これを一から理解するのには年数がかかる。
各山の晒青毛茶のサンプルを集めて、定期的に試飲して観察してきた。
はたして生茶のプーアール茶として適切な品種なのか?
製茶の技術はどうか?
熟成変化に魅力はあるのか?
これらの観察には手間と時間がかかっているので、これ以上いろんな山のお茶に手を広げると仕事の質を落としそう。
2012年のこのお茶でさえ、6年経った現在でもまだ謎が多い。
+【丁家老寨青餅2012年 】
熟成変化はおおむね良好。
西双版納に在庫しているのは、はじめの1年間の保存でちょっと湿気ているが、質が落ちたと言えるほど明確に悪いこともない。湿気ると、香りの立ち方が鈍くなったり、味に酸味が加わったりするが、一年中気温の高い地域なので、もしかしたら乾燥に気を付けていてもこのくらいの変化はあったかもしれない。
漫撒山(旧易武山)の古い品種の茶葉は昔から(1950年代以前)長期熟成の実績がある。
この点でカタイというか安心感がある。
過去のサンプルと比べることができる。
漫撒山一帯のお茶を専門にしている茶商なら、過去に一度は丁家老寨のお茶を入手している。
知り合いの茶商が持ってきたお茶と比べてみる。
『丁家老寨青磚2005年』(仮名)とする。
2005年のはちょっと珍しい。
2006年・2007年にプーアール茶バブルと呼ばれる相場の高騰があったが、価格の高騰は乱獲につながる。
一般的な農作物は豊作貧乏で、沢山収穫されすぎると価格を下げるのが普通だが、茶葉は長期保存ができるせいかそうならない。
2005年はまだプーアール茶ブームが中国大陸全土に広がっていなくて、昔から飲んでいた南方の人たちが主に消費していたので、生産量は今ほど多くなく、新しく森を切り開いて茶地をつくったり、年に3度も4度も茶摘みをするような乱獲は必要なかった。易武山の有名茶地は「麻黒」や「落水洞」くらいで、「丁家老寨」を知るのはマニアくらい。この頃は農家は茶商のオーダーがなければ茶摘みをしないこともあったくらいだから、茶樹は健康だったはず。
剪定や台刈りによって枝や幹が詰められると枝の分岐が増えて一本の樹から採取できる茶葉の量は増える。しかし古茶樹特有の滋味深さは失われる。
2005年のこれはまさに滋味深い。茶湯が口に溶けるようになじんで、すっと喉を滑り落ちて、お腹の底を温める。舌に残る苦味・渋味の消えの速さがよくて清潔感がある。心配していたほどに湿気た影響が悪く現れていない。
だが、お茶のお茶たる風味が弱い。なんだか眠い。
この眠さは丁家老寨のお茶の特徴かもしれない。
この2005年のはあきらかに茶摘みのタイミングが悪い。「春のお茶だ」と茶商は言うが、おそらく夏の雨季に入った5月の2番摘みだろう。
香りが無いし、茶気も充実していない。
ただ、それが眠さの原因じゃない。
2012年の早春に采茶した『丁家老寨青餅2012年』にもこの眠さがあるから。
左:丁家老寨青餅2012年
右:丁家老寨青磚2005年
比べてみると香りも茶気も2012年のが圧倒的に強い。でもやはりなんとなく眠い。
こういう品種特性かと思う。これでよいのかもしれない。
茶葉にしっかり熱が入る3煎めくらいになると香りがキリッとしてくる。外から薫るのではなくて吐く息に薫る香り。この香りが出てくると嬉しい。はじめの1杯めからフルパワーで薫る小葉種の、例えば”倚邦山”のお茶よりも香りにおくゆかさがある。
ささやくような香りは聞くほうの意識を集中させる。
お茶の味の審美眼が、昔の人と今の人とでかなり異なるのではないかと思う。
昔の人のほうが詩人だったので、お茶の味わいに揺れる心を鑑賞できたにちがいない。
どのお茶の香りが強いとか、渋いとか苦いとか、煎が続くとか、なにかに似ているとか、そうではなくて、茶酔いの美しさ。
美の鑑賞は感じる側の人の有り方が問われる。
千利休の時代の黄金の茶室に秀吉の貧しさを感じてしまうように、例えば曼松のお茶の派手な風味にはそれを好む人の未熟さを感じてしまう。(曼松は西双版納旧六大茶山のひとつで、清朝の時代に皇帝ブランドの冠が付けられて国内外の都市に売られていた。現在また人気が上がっている。わかりやすい強い香りが特徴。価格は高騰して毎年話題になる。ニセモノもあふれている。)
美にはこういう面もある。
人の心の卑しさみたいなところを美の学びから指摘できるのは、成熟した教育があるからこそ。
つくる側の問題ではなく、流通の人も、消費する人も。みんなの教育が必要。
左:丁家老寨青餅2012年
右:丁家老寨青磚2005年
コーヒーやワインは科学や経済が偉いが、お茶は芸術や思想が偉い。
- 2018.03.19 Monday
- プーアール茶2005年
- 14:31
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- by ふじもと